2011年3月6日日曜日

やっぱり坂本九ちゃんが好き!

私は昭和の人間だ。80年代のバブルに向かって高度経済成長をひた走っていた時代に生まれたバブルを体現した最後の世代だ。

そんな自分のルーツのせいか、昨今の時代の閉塞感にはほとほと嫌気が指す毎日を送っている。

しかし、ここで忘れてはならないのは、自己責任の法則だ。当然のことではあるが、「原因」(本人を元に作られる縁)があって「結果」(努力に応じた世界)があるというこの世の神仕組みともいえる法則だ。

だから社会やこの世で起きる現象ばかりに目を向け過ぎるのは、自己責任の放棄に繋がる傾向もあって、あまり関心できる精神態度ではないと認識している。

ならここでつぶやこうとしていることは何なのか?!とご指摘を頂きそうだが、あくまで昭和という時代に対するノスタルジーと、無邪気な人間の精神に裏打ちされた戦後の昭和という時代の強さをふと思い至ってしまったつぶやきなのである。

私のPower Macには、雑多な音楽の趣味の一つから坂本九ちゃんレパートリーもi Tunesに取り込んでいる。自然とすべての曲をかけっぱなしにしていることが多いのだが、たまたま、今日も九ちゃんソングを聴いてしまったのだ。

すべてがいい。九ちゃんの歌う詩、メロディー、そしてこぶしを利かせた日本人独特のリズム感。そしてあのはみかんだような素直な唱い方も魅力だ。

加えてこの頃、生誕100周年を記念してNHKでも番組になっている「岡本太郎」氏の存在が気になっている。氏は、言うまでもなく1970年開催の大阪万博で芸術監督を務め、その奇想天外な「太陽の塔」が大きな話題を呼んだ。最近、私は氏の「自分のなかに「毒」を持て」という文庫本を読んだ。今さらながらだが、氏の歩んだ明治から昭和にかけての激動の人生が美しい生きる芸術に昇華され、昭和という時代を希有なるほどに美しく、幻影的に照らし出しているのである。

私は、九ちゃんの明るさも、岡本太郎氏の「芸術は爆発だ」という全身全霊を傾けた氏の人生と芸術が大好きだ。一度は会っておきたかった昭和の人、お二人である。

そんな感慨に捕われながらこの頃は昭和という時代に思いを馳せつつ、今という時代にどう人は、自分は生きるべきかを考えている。

現代は、テクノロジーの時代であり、多様化の時代であり、政治の混沌の時代であり、という意味あいからも大変難しい時代を我々は生きていると私は認識している。

今、坂本九ちゃんが生きていたならどんな歌を歌うだろうか。
今、我が道をまっしぐらに生きた岡本太郎氏が生きていたなら我々にどんなメッセージを送り、そしてどんなオブジェや絵画を残したであろうか。

私の彼らへの興味は尽きることはない。
しかして今日であっても素晴らしい事を成し、また成し遂げようとしている人も多くいる時代ではある。
しかし、彼の時代(昭和)程のインパクトを感じられなくなってしまったことは何故だろうか。思うにインターネットを中心にした情報化社会が人間に感動や、困難なことを成し遂げた人やもの、コトの価値を低減させてしまったのではないだろうか。

インターネットの普及により、一億総天才であり、全世界を含めるとインターネット人口30億人が総天才ともいえるような(極端な言い方をすればだが)状況になってしまっているといえる。知識の入手、コンテンツの入手が余りにも簡単なのだ。

故に「芸術は爆発だ」、「生きることはパッションなんだ」と生きる生々しさを発露することが難しくなってしまったのかもしれない。

自分自身を振り返り、まさしく耳年増になった分だけ、動きが鈍くなり、また行動の前にネットによる情報入手の簡単さに結論を手に入れる時間が早くなってしまったのだ。

何か悲観的な話ばかりで恐縮だが、我々の行動力と思いの力だけはどうしてもあの”昭和”に戻さなくてはと感じるばかりの今日この頃なのだ。