2009年12月24日木曜日

今日はワールドティーチャー(Master Okawa)のレクチャーを聴いた!


12月23日クリスマスイブの直前、渋谷精舎(Happy Science)にて大川隆法総裁の説法が行われた。
Master Okawaによる世界のクリスチャンたちへ送る最大の愛ともいえるレクチャーだった。

なぜなら、Master Okawaの言霊は、霊天上界のジーザスのインスピレーションを受け、ありのままの言葉を伝えているからだ。もちろんトランスレーション状態などではなく、自分自身の言葉として、大川隆法総裁の個性、思考を通して発されるものだ。大川隆法総裁自身もその状況を客観的に把握している。それゆえ、後日、レクチャーがそのまま本になるのだ。

今日の演題は、「For Peace and Love of the world」だ。美しい言葉だと思う。

今回、本会場をモニターでざっと見渡したところほとんど有色人種でアジア系、アフリカ系がほとんどだった。もちろん既にメンバーになって活動している人もいるけれど、中には今日がマスターとの出会いが初めて、レクチャーを初めて聴く、という方もいたようだ。

「Merry Christmas!」クリスマスを祝う言葉でレクチャーは始まった。だがしかし、世界中のどの国の教会に行ってもジーザスはいないのだと、唯一霊的存在であるジーザスの言霊を聴けるのは、地球の最高神であるエル・カンターレを通してこの渋谷精舎のみであると発されたのだ。

これがどれだけ重みのある言葉かお分かりだろうか。

1980年代後半に発足した宗教法人がいまや日本で知らないという人はいない。大きな団体となり(先の衆院選では党も立ち上げた)、日本の政治家や経済人、サラリーマン、主婦、学生、子供のみならず、世界の人々に対して責任を持ち、自身の言葉で直接、メッセージを送り続けている。しかもそれは理解者に対してだけではない。無理解な人のところにも、信仰の奇跡を信じて、「信仰は美しい」と、「エル・カンターレの説く教えは肌の色も国家も、言語も超えて繋がるものだ」と教えを説いているのだ。

1昨年前から勢力的に日本、国外を御巡錫(説法)して歩き、昨年はハワイ、イギリス、アメリカ(ニューヨークとカリフォルニア)、今年はオーストラリアでもレクチャーを続けてきた。

その都度、大川隆法総裁は、クリスチャンたちに真実の信仰を訴え続けてきた。自分がこの地球に責任を持つ、最高責任者『エル・カンターレ』であると、エル・カンターレ(大川総裁の霊的本体)という存在こそが人間の起源であり、アルファにしてオメガであると説法し続けてきたのだ。そして2千年前にジーザスを天上界から導いたのは私自身であると…。

その重みたるやどれほどのものであるか。世界で原理主義のクリスチャンにでも現場を押さえられたら、暗殺される可能性が十分にある。生きて救世主が法を説き、異教徒の国の人々に、『私はジーザスが父と呼んだ存在』であるといって歩いているのだ。 

これだけリスクの高い仕事を誰かやってのけるだろうか。決してお金や名声、その他諸々のものと引き換えたとしても余りあるリスクだ。損得勘定でいえば、「私が救世主である」「この世界に、地球に最終責任を負うものである」などとは決していえないだろう。

その発した自身の言葉に従い、自分自身の使命に従い、その行動を「全人類の幸福化」のためだけに動いておられる方が今そこにいるのだ。その先には宇宙をも含めたもっと遠大な理想、目的というものがあるのかもしれないが、それは今は言うまい。

彼、とあえて呼ぶが、人類のマスターにして最高、最強の教えを説くMaster Okawaは、本物である。

彼ほど本気で日本を、世界を、この地球に住む人々の幸福を考えている人はいない。エル・カンターレ(地球の至高神)がこの時代に降臨したということは、それは人類に最後の真剣勝負を神の側から挑んできたということだ。

神であるエル・カンターレが、人類にこれまでの過ちの多い生き方を捨て、平和と愛を取るか、人類が互いに愛し合い、国家も民族も肌の色も超えてお互いに愛し合えるか、問うているのだ。その時に宗教は、地球という同じ星をベースにして一つに結びつけあうことができるのか、「宗教は美しい」と、曇りなく今日のMaster  のようにいえる人がどれだけいるのだろうか。

許しの神でもあるエル・カンターレが人類に突きつけた試験が、今、ここに始まった。

2009年11月3日火曜日

おすすめ本















最近、良い本との出会いが立て続けにあり、自分の胸の内だけでとどめておくにはもったいないと、感動的だった、つまりは自分の人生に影響をもたらすくらいの本をここでは紹介させていただきたい。

まずは、『人生シナリオを劇的に変える12の勇気』は幸福の科学出版から出た今年の夏の新刊本。

フォーチュン500社入りした企業と仕事をし、近年ではコーチングと、講演家、作家として活動、4人の子どもを育てている、という著者マージー・ウォレルの鳴り物入り的な紹介文を読むと、少々腰が引けてくるのだが、なかなかどうして、近年これだけの明確な指針を持って自己変革を促してくれた啓発本はない、というくらい素晴らしく的確なメッセージ性がそこにあった。

まさしく私に変わるチャンスを与えてくれた。読者が何を求めているかによってもこうした啓発本の効力は変わってくるが、私自身ここ数年悩んでいた自分自身のスタンスや自己像に対して明確な答えを指し示めされたようだった。変わる勇気とは、自分自身に対して「正直に生きる」ということだ。自分の心に素直に正直に生きようと決意したとき、他人との誤解や失敗を恐れる必要がなくなる。自分自身が最善の答えを常に出そうと潜在意識が働き、この世においてスピリチャルな存在との一体感が出てくるのだ。これによって私は、自分自身のストレスが少なくなり、且つ自分自身を満足させることができるようになってきた。そういう意味では、マージーが知ってか知らずでか彼女自身が大いなる存在と交流することができる偉大なスピリチャルメッセンジャーなのだろう。

そして、大川隆法監修 宗教法人幸福の科学編「不惜身命」。
本当は、この一冊だけで朝まで語りつくさなければならないほどだが、あえてこの本はここに紹介したということでこのブログを読んだ人にはすべての人に読んでもらいたい『大川隆法 伝道の軌跡』だ。

「仏法のために我が生命惜しからず」。大川総裁の生命を削っての伝道活動の軌跡を国内はもとより、先の国選に打ってでるきっかけの一つともなった海外での御説法の様子がつづられている。
この宗教がどれだけ本物であるか。まずはこの本を一冊読んでいただき判断していただきたい。

これまで宗教アレルギーや幸福の科学、大川隆法に対する偏見があったとしても一人の人間として、著者の生き様に、その熱に心を打たれなければ真の人間であるとはいえない。

いつかこの全編に紹介された珠玉の言霊を英語でそらんじて世界の人々に教えを伝えるのが私の夢だ。

松下幸之助著『リーダーになる人に知っておいてほしいこと』。
今『経営者になる人に知っておいてほしいこと』も出て、もちろん両方読ませていただいたが、ここに来てすごい勢いで松下幸之助の新刊本が世にで、注目され、その編纂が松下政経塾であるという事実をご存知だろうか。

特にこの夏に松下政経塾編纂本が目だってでていたが、これはやはり民主が政権を取り、世の中の不況が加速することを察知した心ある編集の使命感が生み出した”民主不況攻略本”ではないかと思ってしまう。『サービスというのは慈悲心から出てくる』融通無碍なる心の大切さを説き、時には、神や仏に触れ、素直にものを見ること、周知を集めることの大切さを説く。
どれもこれも松下氏が生前、松下政経塾で説かれていたことだ。シンプルだが、味わいがあってこんな時代だからこそ、当たり前のことを素直に受け止め当たり前にことを成す大切さを教えてくれる。


いやはやとりとめなくてごめんなさい。
もちろん最後に忘れてならないのは、大川隆法著『仏陀再誕』。
映画『仏陀再誕』を観たあとに、世界の慈悲溢れる真の姿を垣間見たくなったらぜひ黄色い文庫本?携帯『仏陀再誕』を手にとってもらいたい。

この懐かしい感覚は仏陀の声を直説金口の説法を直接目で見、耳で聞いたことがあるという心の事実があなたに迫ってくるかもしれない。
いぜれにせよ、あなたも懐かしい草笛の音を聞いて心の平安を得ることだろう。






2009年10月23日金曜日

インドからの旅人


インドは、仏教の聖地ブッダガヤから。
スーリヤ・バハルティ・スクールの子供たちを迎えて。



昨日は、世田谷某所にてインドは仏教の聖地ブッダガヤから子供5名(内女の子3人、男の2人)と大人2名をお迎えてして日印交流の機会を持つことができた。集まった人の温かい雰囲気と大和魂とでも呼ぶべき?ホスピタリティ精神で終始子供たちもリラックスしている様子だった。途中、大人たちの都合で日本語でしゃべりだした頃には子供たちはやや退屈気味だったが、それでも今、ここに自分たちが聖地(仏教)インドの代表として日本にいることを誇りに一生懸命、頑張ってたね。

自己紹介のときに彼らは、精一杯の覚えたての日本語で自分の名前と学校名、年齢、それから将来のなりたい職業について語ってくれた。
「Happy Science」の先生になりたいとか、役人になりたい、エンジニアになりたい、お医者さんになりたいとか…。

子供たちは決してあどけないとか、夢いっぱいとか、そういう言葉で表現するにはふさわしくないくらい、大人っぽい表情で(特に女の子は、そして男の子たちは警戒心が強かった)それは、彼らが普段、いかに厳しい環境で真剣に生きているかを物語っていた。

どこか近寄りがたい雰囲気さえ感じてしまう。最初私はそう感じた。おそらくそれは彼らが厳しい環境で生きてきた証と、それでも成功(ここでは魂)するよ、と決めてきた心の強さ、人間の尊さが、自尊心となって醸し出されていたからだと思う。
そして、2500年前の仏陀に始まり、現代に生きる再誕の仏陀まで、学んできた子供たちはとてつもなくピュアな存在だ。彼らの祈りは真剣で、まるで透明な仏神とのパイプが存在しているかのようだった。

日本とインド、互いの環境のギャップは大きいけれど、それでも自分の持つ宗教や、目に見えない存在に対して崇高な思いを素直に抱ける子供たちは気高く、そこには、民族も年齢も男女も、カースト制度も存在しない。ただ仏を愛する、仏神への祈りをささげる尊い子供たちの姿が凛としてあるだけだ。
つくづく我々日本人は、どれだけ有難さを普段、忘れているのか、と。
パーティーを終えて彼らを見送った後、主賓のゲストと話していて思ったことだ。
インドや世界の紛争地域で生きる子供たちは、日本の当たり前が決して当たり前ではない。
彼らが大人になってもう少し流暢に日本語が話せるようになったとき、もう一度会ってみたい思った。
きっと彼らのことだからインドのために、他の世界の人々のために一生懸命働いてくれていると思う。そんな彼らの未来を想像して。
今よりもっとたくさんのことが話せるんじゃないかな、とその時を楽しみに。
子供たちがまた今日も大切なことを教えてくれた。

2009年10月6日火曜日

映画『仏陀再誕』

10月5日、丸の内東映で映画『仏陀再誕』の試写を観た。
予想していた以上に良かった。予想というよりは何も考えずに今回は観に行った。

幸福の科学総裁グループとなって初の大川総裁総指揮、ご子息の大川宏洋くん企画・脚本による初の映画。若い感性が存分に生かされた10代、20代向けの映画との前評判があったが、 確かに大川宏洋くんが今回の映画から脚本に加わったこともあって、いまどきの女子校生 (でもやはり普通ではない、超感性の女の子)の恋愛観が表現されていたり、等身大の若者の 会話がこのストーリーを進める上で重要なリアリティをもたらしてくれる。

いわゆるこれまでアニメでしか描けないと、幸福の科学ムービーに主流となっていた 霊界世界や超常現象のエッセンスが炸裂しつつも、どこか人間くささ、”この世に生きる人間 の悲哀”や”かわいらしさ”が自然体で描かれ、不思議な哀切を 奏でる映画へと昇華されている。

これまでの幸福の科学アニメにはなく、劇画チックな表現に頼らないストーリー そのものを重視した本質をしっかりと捉えた『仏陀再誕』は、日本の新しいジャンルのアニメとコラボした次世代型の宗教映画といえるのではないか。

お世辞も何も抜きにしてこの映画を素直な心で何ら偏見のない思いで見たならば、これは”衝撃的な霊界世界”の真実を表現したいや具現化した映画であり、”現世”で生きる 人々にとって大いなる福音をもたらす映画であることは間違いないだろう。

それは観たものの持つ悟りや、感性で感じ取ることしかできない『間合い』のようなもの がこの映画には隠されているが、確実にこの映画を観た後と、観る前とでは同じ人間では いられなくなるのではないかと思う。

少なくともこの世の切なさ、はかなさの中に生きる人間にとって、かすかに、いや本当は大きな希望 として与えられた『仏陀再誕のキー(鍵)』、このキー(鍵)を物語としてのみ解釈するか、それとも厳粛なる 事実として受け止めるか、それは観客と仏陀との縁そのものであり、またその人間の持つところの仏性(仏の子としての性質)、素直さそのものに委ねられることだろう。

人間の弱さを知り尽くし、その上で最大の『許し』という愛を与える仏陀の存在。
これは決して2500年前にのみ起きたことではない。

今も現代においても密かに仏陀は生まれ変わり、その使命を繰り返される日常の中で人知れず果たそうとされているのだ。その再誕の仏陀はひとり。しかしその教えの元に集まる弟子たちの数は、あの東京ドームを埋め尽くした映像のように日本には散りばめられている。

『仏陀は誰なのか』その答えを模索するもよい、しかしその前にもしも仏陀がこの地上に救世主と して降臨していたとしたならば、あなたはその教えの真実に触れ、随喜の涙に心を洗われたい と思わないか。

そしてもしもあなたがこの映画を観て魂の奥底に触れるものが心の琴線 に触れるものがあったのだとしたら、あなたが仏弟子であるということの証であり、あなたの魂はいま、仏陀によって救われている。

すべての日本人が観るべき映画。
少なくともこの映画を前向きに『観てみよう』と思う日本人が増えたならば、この日本で毎年増え続けている自殺者や、犯罪の数は減少することだろう。

この映画を通して1日も早く無明の闇から脱し、日本が、世界が明るく照らされることを痛切に願う。

2009年8月7日金曜日

矢沢かっこいい

矢沢永吉といえば、伝説のロッカー。70年代のCMヒット曲を飛ばし、『成り上がり』という矢沢を象徴するコピーから同名のエッセイ集もだしていたな。

あの頃、私は小学生か中学1,2年生だった。少し歳の離れた大人っぽい兄貴の影響で矢沢のLPを買ったりしていたっけ。楽しい時代だったな、日本に元気があった時代。

日本はバブルに向けてまっしぐら。80年代半ば~後半のバブル期に青春時代を過ごした私は、20歳位上の矢沢の歌う『成り上がり』、『ハングリー精神』なんていうものとは縁がなくて、既に時代は、『新人類』と呼ばれる世代の代表で、常に恵まれた時代の恩恵を受けてぬくぬく育ったひとりだ。

それから20年。また時代はあの頃とは少し様子が違っていて、同じ不況でもバブルの良い時代も経験したことのない、若者たちが社会に出て汲々としている。しかし一番、社会になじめず、社会の閉塞感に今だ戦い切れてないのは、我々バブルを経験した若者40前後の人間であるようにも思う。

なぜこんなことを書き始めたかというと、それはある公共放送での番組を観たときのこと。スタジオで若者と相対峙し、一生懸命に若者の質問に答えている人がいたのだ。それは、あの”矢沢その人”だった。

最近、よくテレビ番組に出演している矢沢だが、NHKのトーク番組にまで出ていたんだ。意外だったな。昔の矢沢ならなかった気がする。「smap×smap」でもいい味だしていたけど…。70年代からあくまでノリは変わらないけど、渋くなった伝説のロックンローラー矢沢がほんの少し刺をなくしたように、いやそれよりも物分りのよい「こんな上司がいたらいいのにな」と思わせるような落ち着いた深みのある渋い態度で、若者に向き合っていたんだ。

内容はこうだ。「(中略)…絶対に社会や人のせいにしちゃいけないんだ。自分で道を切り開くことができるんだ。それが大事なんだな。」そんな内容だった、多分、ニートや昨今の何をしたら良いのか分からない、という若者に対しての言葉だと思う。

一見、どこかで誰かが言ったような言葉のようにも聞こえるが、矢沢の言葉は本当、マジやばかったよ。
本当にこの人は矢沢だ。『成り上がり』のあの矢沢がいってるんだ、ってぞくっときた。

本当にそうやってバブルの絶頂期を迎える日本を率いてきた日本を代表する一人なんだ。

政治とかじゃなくて、実際に音楽や映像という手法で時代にメッセージを発信し、荒くれものの若者の心を掴み、時代のトレンドであるコマーシャルでその存在感をあまねく世間に知らしめた。その人だから、言葉に真実の重みがあった。

だって、そんなありきたりな言葉のようでいて、今の時代に当たり前のことを当たり前に言って説得力のあるひとなんて、そういないんだよ。逆にまともな正論はける人が希少な時代なんだから。

例えばニートと呼ばれるような若者が反社会的な事件を起こすとする。すると若テレビのコメンテーターやどこかの左翼系評論家ならこうだ。「そもそも社会の構造がおかしいですね。派遣切りにあうような制度は抜本的に根本的に見直さないといけない。ニートや犯罪を犯す若者が後を絶たない。これは、社会問題ですね」などと知った顔で言うわけだ。

それは社民党さんがよく使う弱者に対して平等を説き、政治が変わらなければ問題が解決しないと、本人の自己責任論などの問題ではないと、逃げる論調だ。こうした弱者(犯罪者も含めて)に対する一見、慈愛のようにも錯覚させる論調だが、果たしてそうか。

最近では、馬鹿なコメンテーターが最近降板になったが、タレント上がりのコメンテーターに多い、こういう社会全体の責任に話を持ってくる方多い。けれどそんな同情論はもう聞き飽きたんだよ。

しかるべき時にほんとうにしかる。言うべきときにきちんと本音で自分の経験を伝える。そんな大人が少なくなった。だからマジで自分の生き様を妥協せず、一本の道をただひたすら歩いてきた男の言葉には重みがある、本気さがある。正しいことを正しく伝えられる強さがある。

ああ、そんな矢沢はかっこいいな。
子供の時には分からなかったかっこよさが今なら十分分かる自分になった。

ほんとうにこんな大人が一杯出てこないといけないんだな。
頑張ろう~。そんな矢沢になりたい?!





2009年8月2日日曜日

ちっちゃな手で…

先月のことになるけれど、自宅前のバス停からいつもの成城学園前に出るバスに乗ったときのこと。
小さな女の子二人姉妹?が、お年寄りなどが座るシルバーシートの横型のボックス席にデ~ンと座っていた。座っていたというよりも小さな子供二人では3人がけくらいあるシートは広すぎてちょっと収まり悪そうで、足を広げたりして、運転手さんから「ちゃんと座ってて下さいね」とアナウンスされるような状態だった。足の納まりの悪い子供たちは、なんだかわざと行儀悪い感じだったが、まだ小さいし、仕方ないかな、とも思って見ていた。

すると次のバス停で年配(多分70歳前後)の背が低く荷物を持ったおじさんがよたよたバスに乗ってきて、シルバーシートの前に今にも「座らせて」といわんばかりの雰囲気で立った。子供たちに言葉に出していいかけたのだが、遠慮して声にはならなかったのだ。ついに私が見兼ねて、「みんな、おじさん来たら足をきちっとして。間を空けて。」と言い放った。おじさんは遠慮深く「いや、いいですよ」とおっしゃってくださったのだが、でも私は、「いえ、これは教育ですから。ちゃんとさせないとだめですから」というと、おじさんは子供たちに向かって「教育なんだって…」と照れくさそうに子供たちの間に座らせてもらっていた。おじさんは今時めずらしいほど謙虚で控えめな方だったのだ。

その時の子供たちというと、実は、とても素直で、最初に行儀悪いなと思った印象とは打って変わって、たった一言の呼びかけですぐ言われた通りに行動して、まるで清清しい体操の時間のような空気になっているのだ。「こんなに素直なんだ、言い方きつくなかったかな」とそんな躊躇を心の中でしていると、程なく終点の成城学園前の駅についた。

降り際に子供たちの顔をみると、小さい女の子(4歳、5歳?)の方がこちらの顔を見上げて、小さな手を振って「バイバイ!」って言ってくれたんだ。

そう、子供たちは決して大人のいうことを聞かないわけではないんだ、正しいことをしたら気持ちが良いっていうことを知っているんだ。その証拠に、小さい女の子の目は、正しいことが出来て嬉しかったよ、おじさんに席を空けてあげられて嬉しかったよ、と言っているかのように瞳が輝いていたんだ。

こちらも笑顔で振り向いて「バイバイ。またね!」って言ってあげた。
素直に自分が行動できたことが子供たちは嬉しかったのだと思う。大人はやはり無関心ではいけないね。心からその子をよくしてあげたいと思ったら、注意を払って、親が見ているとか、自分の子供じゃないからとか関係ないんだと思う。子供は自分がきちんとできることが嬉しいのだから。その方法を知らなくて困っていただけのことなんだから。今日も明日も良い出会いがありますように☆

子供たちの素直さに感謝☆★☆

2009年4月15日水曜日

桜の季節が終わる頃

我が家のすぐそばにある砧公園で見つけた犬とひと。
ワンちゃんはちょっとお年を召したような静かなゴールデンレトリバー。
ご主人様が本を読んでてもただただそばにいて(ちょっとせつなさそう…)
公園の路行く ひとを眺めてるだけなんて、人間だったら我慢できないよ。
(えらいね)

やっぱりこれがひとと犬の関係なのかな?
桜の花が散った頃の公園で。