2011年4月23日土曜日

福島・子どもいじめ問題に思う

ここ数日、福島始め近県の農産物、畜産に対する風評被害ばかりではなく、人への風評被害が起きていることが報道されている。


下記のurlは、被災地において福島からの転校生がいじめを受け、怪我を負わせられた事実を伝えている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110423-00000037-mai-soci
言葉によるいじめに空き足らず、肉体的にも入院を余儀なくされるまでに至ったのだ。


いじめたのが子どもということもあり、何ともやるせない気持ちなのだが、これだけの素晴らしい国民性と国土をいただく日本にあってこうした事件が起きることに日本人としての”あるべき姿”の喪失感、危機意識さえ覚えるものだ。


被害者は当然、励まさなくてはならない相手であり、運命に打ちひしがれている被災者である。

それを怪我に塩を刷り込むような陰湿ないじめ、暴力によってさらにその子どもの心を痛めつけてしまうとは、どういう因果があってそのような子どもたちの振る舞いを生みだしたのか。

子供はもともと大人よりも正直な生き物である。それ故、残酷なことを平気でするようなことが起きるが、しかし、子供であるからといってそれですまされることではない。

なぜなら今、子ども同士のいじめ問題は、日々、深刻化して来ているからである。日常的に転校や自殺に追い込まれる児童や10代の若者たちが後を絶たないのだ。

こうした残忍な子供を生み出した日本社会があるということは、その影に親の教育があり、さらには日本の公立校における戦後教育というものがあるからだろう。

日本神道を始めあらゆる宗教を排除し、戦後の日本の教育は行われてきたが、やがてそれは道徳教育をも排し、そしてゆとり教育による学級崩壊へとそのシナリオは進んできたのである。

今年からであったと思うが、小学校高学年から英語教育を取り入れるなどグローバル化する社会にあわせるようにようやく新たな教科項目を付け加えようとはしているものの、相変わらず日本における精神教育は悲惨な状態のままにある。道徳教育復活への声も聞かれるものの、安倍内閣政権時に教育改革は重要課題とされたものの、日の目を見ることなく、その後内閣総理大臣に受け継がれることはなかった。

そうした日本における教育の危機は、ひと角の政治家であるならば、誰もが憂える国の課題であることは間違いないだろう。それでも教育問題は時間のかかることであり、今日日本の教育界を牛耳ってきた日教組の圧力に、憲法9条改正問題と同じ位のハードルの高さがを強いられる改革項目ではなかろうかと思う。

しかし、昨今の陰湿ないじめ問題や、原発被災地福島からの転校生を入院させる程傷つけた現所を見るにつけても、日本の子どもたちの教育問題を(実は大人自身の教育・感化も含めてであるが)早期に議論し、健全なるナショナリズムとグローバル時代に戦えるだけの精神力、そして騎士道精神を持った子どもたちを輩出していくことがこれからの日本においては是非がでも大切なことではないだろうか。

教育に直接的には携わっていない人間の言ではあるが、昨今の大人を含む、子どもたち被災者へのいじめ、圧力などを見てもまだまだ日本は姿勢を正しやるべきことがあると思うのである。

何より純粋な子どもたちが唯物的な大人の思惑や、現政権によってもたらされた疑心暗鬼な心、自分のことしか考えられない程に貧しくなってしまった日本経済による貧困なる精神にこれ以上毒されてしまわぬように、政権交代が速やかに行われ、かつての安倍晋三首相のような大局に立って物事を考え、日本の未来を動かせる政治家にこの国の舵とりを撮って頂きたいものである。

結論はやはりそういうことではないだろうか。
いじめ問題はこの国の困難の端緒でもある、と断じておきたい。

2011年3月6日日曜日

やっぱり坂本九ちゃんが好き!

私は昭和の人間だ。80年代のバブルに向かって高度経済成長をひた走っていた時代に生まれたバブルを体現した最後の世代だ。

そんな自分のルーツのせいか、昨今の時代の閉塞感にはほとほと嫌気が指す毎日を送っている。

しかし、ここで忘れてはならないのは、自己責任の法則だ。当然のことではあるが、「原因」(本人を元に作られる縁)があって「結果」(努力に応じた世界)があるというこの世の神仕組みともいえる法則だ。

だから社会やこの世で起きる現象ばかりに目を向け過ぎるのは、自己責任の放棄に繋がる傾向もあって、あまり関心できる精神態度ではないと認識している。

ならここでつぶやこうとしていることは何なのか?!とご指摘を頂きそうだが、あくまで昭和という時代に対するノスタルジーと、無邪気な人間の精神に裏打ちされた戦後の昭和という時代の強さをふと思い至ってしまったつぶやきなのである。

私のPower Macには、雑多な音楽の趣味の一つから坂本九ちゃんレパートリーもi Tunesに取り込んでいる。自然とすべての曲をかけっぱなしにしていることが多いのだが、たまたま、今日も九ちゃんソングを聴いてしまったのだ。

すべてがいい。九ちゃんの歌う詩、メロディー、そしてこぶしを利かせた日本人独特のリズム感。そしてあのはみかんだような素直な唱い方も魅力だ。

加えてこの頃、生誕100周年を記念してNHKでも番組になっている「岡本太郎」氏の存在が気になっている。氏は、言うまでもなく1970年開催の大阪万博で芸術監督を務め、その奇想天外な「太陽の塔」が大きな話題を呼んだ。最近、私は氏の「自分のなかに「毒」を持て」という文庫本を読んだ。今さらながらだが、氏の歩んだ明治から昭和にかけての激動の人生が美しい生きる芸術に昇華され、昭和という時代を希有なるほどに美しく、幻影的に照らし出しているのである。

私は、九ちゃんの明るさも、岡本太郎氏の「芸術は爆発だ」という全身全霊を傾けた氏の人生と芸術が大好きだ。一度は会っておきたかった昭和の人、お二人である。

そんな感慨に捕われながらこの頃は昭和という時代に思いを馳せつつ、今という時代にどう人は、自分は生きるべきかを考えている。

現代は、テクノロジーの時代であり、多様化の時代であり、政治の混沌の時代であり、という意味あいからも大変難しい時代を我々は生きていると私は認識している。

今、坂本九ちゃんが生きていたならどんな歌を歌うだろうか。
今、我が道をまっしぐらに生きた岡本太郎氏が生きていたなら我々にどんなメッセージを送り、そしてどんなオブジェや絵画を残したであろうか。

私の彼らへの興味は尽きることはない。
しかして今日であっても素晴らしい事を成し、また成し遂げようとしている人も多くいる時代ではある。
しかし、彼の時代(昭和)程のインパクトを感じられなくなってしまったことは何故だろうか。思うにインターネットを中心にした情報化社会が人間に感動や、困難なことを成し遂げた人やもの、コトの価値を低減させてしまったのではないだろうか。

インターネットの普及により、一億総天才であり、全世界を含めるとインターネット人口30億人が総天才ともいえるような(極端な言い方をすればだが)状況になってしまっているといえる。知識の入手、コンテンツの入手が余りにも簡単なのだ。

故に「芸術は爆発だ」、「生きることはパッションなんだ」と生きる生々しさを発露することが難しくなってしまったのかもしれない。

自分自身を振り返り、まさしく耳年増になった分だけ、動きが鈍くなり、また行動の前にネットによる情報入手の簡単さに結論を手に入れる時間が早くなってしまったのだ。

何か悲観的な話ばかりで恐縮だが、我々の行動力と思いの力だけはどうしてもあの”昭和”に戻さなくてはと感じるばかりの今日この頃なのだ。