2013年11月13日水曜日

終わりなきタリバンの爪痕(バーミヤン遺跡について)


タリバン(ムスリム原理主義)によって破壊されたバーミヤン遺跡についてですが、ドイツの専門チームが中心になって修復という方向で進んでいました。ところが、仏像に足をくわえようとするなどの誤った仏像解釈にユネスコから待ったがかかりました。

現在では、遺跡の修復に対し、どこまで手を加えるのかという議論とともに、野蛮なタリバンの行為に対して「何もすべけきではない」という意見もでています。

特にこの提言を行っているのは、2体の仏像が破壊された直後、最初にバーミヤンを訪れた調査団のひとり、画家の平山郁夫先生でした。

その外観から以前あった仏像を心で感じ取り、平山先生の筆にはしっかりとその仏像の姿を描くことができたそうです。

平山先生の意見はいま、「歴史の一幕に手を加えるべきではない。遺跡をとおして、後世に語り継がれていくべきである」とユネスコに対して訴えておられます。

私も、平山郁夫先生の考えに賛成です。歴史的事実は事実として、人類が受け止めていくべき負の遺産だと思うのです。

タリバンの行為は、憎むべき行為ですが、そのことから後世や現世に生きる人間たちが何を感じ取っていくことができるのか。私たちに与えられた大きな宿題だと思っています。

2013年11月12日火曜日

日本社会はいったいどこへ向かっていくのか!?(日本人の美徳を大切に)

ご無沙汰しております。
北野容子です。てっ、自分のブログで改めて名乗るやつがいるか(苦笑)。

まあ、何と言いますか、今回も現政権の閣議決定にすっきりしないものを感じ、にわかにblogをしたためている次第であります(笑)。

先ほどニュース報道にありました「婚外子の相続格差是正のための民法改正」を閣議決定した、というやつについてです。

これまで少々、気の毒な婚外子の女性の例をとりあげて、格差はひどいと、結婚していてもしていなくても女性と子供の権利を守るべきであると、声高々にマスコミがわめいておりました。

まあ、マスコミは弱いものの見方ですから、それはそれでよいことでしょう。
でもね、日頃外人(時々、人にいわれます、ここでは体型に関係なく欧米人のような発想する人、という意味でしょう)と、言われる私にとってもこれについては異論がございますね。

なぜかっていうと、他のひともブログに書かれていらっしゃいましたが、日本の家族制度を守るためにこの法律は明治以来より守られてきた国家制度なわけです。

もちろん古い頭で、時代に即していない法律に対していつまでもしがみついている必要はないと、日々、考えているものではありますが、これに対してはいざ、「改正」となると微妙な心の機微というものを感じます。

果たして国を挙げて、結婚しないという選択を自らしたもの(あるいはできなかったもの)に対して、正式な結婚という形をとって守られるべき立場にいる子どもと同等になって、相続争いをすることが果たして望まれるべき、日本人の在り方かどうか、ということです。

もちろん円満に解決するのがいちばんで必ずしも相続争いをするとは限りませんが、それでも心情的に、きちんとした結婚制度のもとに生まれた子供の立場にしてみれば、面白くないことは想像に難くないでしょう。

あえてなぜ、婚外子と婚内子との間に格差を設けたか。
それは前述したように、あくまで正当に結婚した男女の子どもであるからです。
それ以外の子どもは本来、認められるべきはずの子どもではないからです。

もちろん子どもには何の責任もありません。
けれど、第二夫人、第三夫人の子ども(要はイスラム教国のように、あるいは過去の王制のように)
として認めていけば一夫一婦制の崩壊にもつながり、結婚制度そのものの危機になる可能性を秘めています。

むろん、ある一定の男性の本音としては、「一夫多妻」ということもあるでしょう。
しかし、日本の結婚制度そのものに立ち返ってもそうですが、日本の風土、社会的通念と照らしあわせて考えてみても、「なんでもあり」の無秩序な男女間の結びつきは容認されるべきものではありません。

まあ、もちろん致し方ない事情というものは考慮されるべきで、それに対して何ら先入観で他人を非難するものではありませんが、私が言いたいのは、「安易に家庭の幸福を阻害するような法律を成立させるべきではない」ということです。

少々、拡大解釈しているのではという向きもあるかもしれませんが、個人においては自由です。

人間の幸福の在り方には様々あることでしょう。
日々、私自身、幸福について考えるものではあります。
けれど、やはり人間として家庭というものは守られるべきものであり、人間として守るべき態度は遵守すべきであると考えるものです。

しかし、だからこそ、政府にあっては安易に自由というよりもマスコミや左翼的勢力からの非難を逃れるためだけの法的解釈をまげては相ならんと思うのです。

真の自由は、自分の人生に責任を持てる人生です。
あえて母親が結婚せずに子供を産む、という自由を選んだのであれば、それは子どもも含めて、あえて最初から最後まで一貫してその生き方を貫き通すべきでしょう。

多少の弊害や、損をすることぐらい最初っから分かっていることです。
それでもその生き方を選んだのであるならば、やはり一歩自分が引いて、謙虚に生きていくことが、人間としての徳ある生き方なのではないでしょうか?

随分、えらそうなことを書いてしまったのかもしれません。
しかし、自分の生き方を貫こうとするならば、絶対的多数の幸福を脅かすような法律改正に加担してはやはり、相ならんと私は思うのです。人間としての良心です。

私は、最後の最後まで頑固おやじ的日本人であることを貫き通したいと思います。
皆さんは、いかがお考えになりますでしょうか?