2010年5月4日火曜日

私が子どもだった頃

私は、徳島県のちょうど鳴門市と徳島市の境に位置する北島町という小さな街で生まれた。

田舎町ではあったけれど吉野川(下流)が流れる町には、大阪万博以降、東京から光化学系企業の東亞合成、東邦レーヨンなどが参入し工場が建ち並んでいた。

当時はまだ農家も多かった時代だと思うが、私たちの親の世代から勤め人になる人が多くなっていた。そうした時代のサラリーマンの家庭の住環境は今のように恵まれたものではなかった。近隣には、小さな平屋建ての言ってしまえば、ウサギ小屋と揶揄された当時のサラリーマンの借家が立ち並んでいた。そして私の同級生のほとんどが、その小さなウサギ小屋の住人でもあった。


しかし、私はといえば、若い頃から金物工具店の叔父の元で修行をしていた父が、20代で独立。小さいながらも自前の土地で店を営んでいた家に生まれ、私が生まれた年に建て替えられた自宅は、その後、建て増しを続け、小学校に上がる頃には、当時では珍しい3階建ての住居付き店舗(鉄筋、エレベーター付き)になっていた。小さな町の中では、そうした両親の活躍は目立つもので、何かと地域のボランティアや、学校施設への寄付など地元の名士として応じていたようだった。


むろん従業員も数名いたが、そのなかには同級生のお母さんもパートとして混じっていた。そんな家庭状況であったが、私自身にとってはそれがどういうこともなく、ただ両親を尊敬する気持ちを持ちながら、毎日を屈託なくわんぱくに過ごしていたものだ。

それが小学校の高学年に上がった頃、一部の子どもからいじめともいえるような、強烈な嫉妬を受けるようになった。今にして思えばだが。学年でも特に自己顕示欲が強く成績も良かった男子生徒からよく絡まれることが多くなったのだ。

それは私の父の店で雇っていたパートのおばさんの息子だ。

その彼とは普段はあまり話をしたこともなかったのだが、登下校は同じルートだ。まったく何でもないことでライバル心をむき出しに、自分の方が優秀であることを証明しようとする。他の同級生に『○○の親はこうだ』とか何か良からぬ噂を流しているようでもあった。

自分の親だから擁護するという訳ではないが、私の親はかなり人のいい人たちなのである。困った人がいると見過ごせず、よく父は「人をだますぐらいなら、だまされる方がいい」、泥棒に入られてもお金を持ち逃げされても「自分が悪いことをしたわけじゃないからいい。盗んだ方が悪いんだから。」といっていた。

ましてや、当時の自営業者の間で流行っていたニューモラルという道徳科学(モラロジー)を勉強し、宗教心も篤く、人の面倒を見ていた父や母が人からねたまれるようなことは子ども心に想像することはできなかった。

しかし時は高度経済成長期、人は人からしてもらったことは忘れやすく、自分が持っていないものを持っている人に対しては壮絶な嫉妬を感じてしまったのかもしれない。

当時の私といえば普段から親からほしいものはすべて与えてもらっていたので、同級生に嫉妬するという感情がわくことはなかったが、逆に家族全員が揃って団らんできるサラリーマン家庭の子どもをうらやましく思ったことはある。

私にとっては小さな家で住んで家族の顔が毎日よく見えて、他人が介在してこない日常を送れることが家族の理想だったのだ。

つまりは何が言いたかったかというと、パートで雇われていた同級生のお母さんは、私の印象としては、かなりリベラルな左翼思想に影響を受けていたような人であった。恐らく自宅に帰ってからはその日の労働の不満を子どもや旦那にいって聞かせていたのだろう。

当時、社会主義(マルキシズム)に影響を受けていた労働者が多かったのは事実だ。やはり父のもとで働いていた母の妹の旦那であるおじさんは共産党員で赤旗を毎日のように暇な時間にはせっせっと読んでいた。

両親のいないところで私は、その叔父さんの妻である母の妹からいじめを受けていたことがあったが、私はそのことを母にも父にも言うことが出来なかった。今思えばすべては社会主義の影響を受けた労働者側の嫉妬という名の悪魔がなせる技であったと解釈している。


やがて私の実家の稼業は、私が20歳のときバブルを目前に倒産した。
今思えばその予兆のようなものが私が子ども時代からあったのかもしれない。やはり、父は経営者としては未熟だったのかもしれないとも思う。

しかし、生きることに不器用であった両親かもしれないが、それでも私を正しい信仰に導いてくれ、幼いときにミッション系の学校に通わせ、良書を読むことや宗教心の大切さを肌で感じさせてくれたことには大変、感謝している。


特に左翼思想の蔓延る70年代に、正しい道を指し示してくれていた母には感謝と敬意を表したいと思う。