2009年10月23日金曜日

インドからの旅人


インドは、仏教の聖地ブッダガヤから。
スーリヤ・バハルティ・スクールの子供たちを迎えて。



昨日は、世田谷某所にてインドは仏教の聖地ブッダガヤから子供5名(内女の子3人、男の2人)と大人2名をお迎えてして日印交流の機会を持つことができた。集まった人の温かい雰囲気と大和魂とでも呼ぶべき?ホスピタリティ精神で終始子供たちもリラックスしている様子だった。途中、大人たちの都合で日本語でしゃべりだした頃には子供たちはやや退屈気味だったが、それでも今、ここに自分たちが聖地(仏教)インドの代表として日本にいることを誇りに一生懸命、頑張ってたね。

自己紹介のときに彼らは、精一杯の覚えたての日本語で自分の名前と学校名、年齢、それから将来のなりたい職業について語ってくれた。
「Happy Science」の先生になりたいとか、役人になりたい、エンジニアになりたい、お医者さんになりたいとか…。

子供たちは決してあどけないとか、夢いっぱいとか、そういう言葉で表現するにはふさわしくないくらい、大人っぽい表情で(特に女の子は、そして男の子たちは警戒心が強かった)それは、彼らが普段、いかに厳しい環境で真剣に生きているかを物語っていた。

どこか近寄りがたい雰囲気さえ感じてしまう。最初私はそう感じた。おそらくそれは彼らが厳しい環境で生きてきた証と、それでも成功(ここでは魂)するよ、と決めてきた心の強さ、人間の尊さが、自尊心となって醸し出されていたからだと思う。
そして、2500年前の仏陀に始まり、現代に生きる再誕の仏陀まで、学んできた子供たちはとてつもなくピュアな存在だ。彼らの祈りは真剣で、まるで透明な仏神とのパイプが存在しているかのようだった。

日本とインド、互いの環境のギャップは大きいけれど、それでも自分の持つ宗教や、目に見えない存在に対して崇高な思いを素直に抱ける子供たちは気高く、そこには、民族も年齢も男女も、カースト制度も存在しない。ただ仏を愛する、仏神への祈りをささげる尊い子供たちの姿が凛としてあるだけだ。
つくづく我々日本人は、どれだけ有難さを普段、忘れているのか、と。
パーティーを終えて彼らを見送った後、主賓のゲストと話していて思ったことだ。
インドや世界の紛争地域で生きる子供たちは、日本の当たり前が決して当たり前ではない。
彼らが大人になってもう少し流暢に日本語が話せるようになったとき、もう一度会ってみたい思った。
きっと彼らのことだからインドのために、他の世界の人々のために一生懸命働いてくれていると思う。そんな彼らの未来を想像して。
今よりもっとたくさんのことが話せるんじゃないかな、とその時を楽しみに。
子供たちがまた今日も大切なことを教えてくれた。